grazieグラッツェ

livedoorSPORTS
グラッツェ! 毎週更新
メダリスト有森裕子の「才能」

[写真] 有森裕子
オリンピックについて語ってくれた有森裕子 (photo by livedoorスポーツ)

 オリンピックとは、どんなところなのか。常人では立つことすらかなわない舞台に、二度立ち、ともにメダルを獲得した。有森裕子のマラソン人生は、順風満帆に思える。
 しかし、二度目のアトランタ五輪で、3位でゴールした直後、「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と話し、涙したように、決してエリート街道を突き進んできたわけではない。
 有森は、自分の才能を「頑張る才能」と言った。それは、「走る才能」とは別の、選手生活を終えた今も生きている才能だ。
アスリートのマネジメント会社「ライツ」を立ち上げ、講演などで自分の体験を話しながら、人々に勇気を与え続ける有森に、マラソンについて、そして、オリンピックについて話を聞いた。

――昨年2月の東京マラソンで現役を引退されて、今はもう走っていないんですか?

「そうですね。今はもう特別時間を持ってやってはいないです。仕事でランニングイベントとか、会社でエリック・ワイナイナを抱えてる都合もあって、会社のチームで時々集まってやっているくらいで」

――指導されたりは?

「頼まれないとしないです(笑)」

――現在のところは、頼まれていない。

「聞く人はいっぱいいるんですけど、あまりそこにテンションがないですね。どちらかというと、マラソン専門の話をするよりも、メンタル的なことを講演で話すことの方が多いですね」

――そもそも、有森さんにとって、マラソンとは?

「自分の生き方を作るための手段、としてやってきました。だから、生き方に繋がらないと困る」

――いつ頃から、そう思っていたのですか?

「走るということができたのが中学校の頃でした。もともとは学校の先生になりたかったんです。走ることができれば、教員になるには、有利に働くだろうと思って始めたのもありますね」

――何の先生ですか?

「体育です」

――その頃から、体育は得意だったんですか?

「体育が好きだったというよりは、体育の先生が好きだったんですよ。小学校のとき出会った体育の先生がとっても面白い先生で、メンタルを元気にしてもらいました。そういう何か自分に持てたものがあったら、それを活かして、人を元気にするような職業に就きたいって思っていました。その当時、私の憧れは体育の教員。小学校6年からの夢でした」

――その先生が、有森さんの走る才能を見出した?

「走る才能じゃないです。頑張る才能です。走る才能は、まだ当分無いです(笑)。中学校では、ぜんぜん違うクラブに入っていたので」

――何のクラブですか?

「バスケットです。ぜんぜんダメでしたけどね。いや、ダメだったからよかったんですけど(笑)。バスケって、心肺機能が強くなるので、たまたま出た体育祭の800メートル走で勝てたというのが大きなきっかけですね」

――それまで自分は脚が速いという自覚はなかったんですか?

「短い距離はダメなんですよ。でも距離が長くなれば勝てるというのはそのとき初めて知りました」

――それ以後は走ることをメーンに?

「それが唯一私が出来ることでしたので、高校からは陸上部に入ろうと思いました。でも高校3年間、陸上部ではぜんぜんダメでしたね」

――ダメというのは?

「なんの成績も出してないんです。大会にも行っていませんでした」

――まだ才能は花開かない。

「まだぜんぜんですよ」

――で、高校を出られて。

「まだその時も、教員になるつもりだったので、他にできることがなかったし、走ることは他のものより頑張ろうと思えてたんですよね。ただ、みんなの伸びていくスピードにはついていけない。大事なときに貧血になったりしていました。レースでも、全てがパーフェクトに揃わない中で、耐えながら続けていました。それがパーフェクトになったらどうなるんだろうっていうところをまだ見ないでいたんです。結局大学も、体育の教員になるつもりだったので、体育大を目指すようになり、行ける成績は無かったんですけど、恩師が手紙を書いてくれまして、日体大に入れてもらえました」

――大学では?

「そこでも、1年目は、まあまあの成績が出たんですけど、2年3年は全くダメ。4年のときに、リクルートへの就職が決まって、やっと一本成績が出ました。リクルートには、いい成績を持って行けたわけじゃないんです。押しかけです」

――押しかけ。

「当時、教育実習をやっていて、でもやっぱりもう一回走りたいと思ったときに、どこからもお呼びがかかんない状態だったので、とりあえず自分で売り込まなきゃいけなかったのですが、色々探すあてもなかったときに、たまたま友人から、新しい実業団の方がいいんじゃないかっていう話を貰いまして。それが、当時、世間を騒がせたリクルートだったんです。私、入社が平成元年ですから、ちょうど事件があった時期なんです。リクルートは、チームが新しくて、“走りたければだれでもいいみたいよ”という友達からの情報があったので、じゃあここしかない(笑)っていうことで売り込みました。その時に初めて小出監督と会いました。実績は全くありませんでしたが、やる気を買ってくれるっていうことでした。本人から後で聞いたら、何か高卒の子がうちに入ってくるから、その子達の面倒見てもらおうっていうことで取ったらしいんですけど」

――では、そこから。

「それから半年後ぐらいですね。気分的な入れ替えで、やっと成績が出始めました」

――気分的な入れ替えというのは?

「本当に他の子たちが強かったんですよ。私は実績がなさすぎたこともあって、選手としては何となく、二の次的な存在でした(笑)。私、岡山県の代表で国体に出たかったんですよ。国体ぐらいには出られる選手になって、岡山に恩返ししたいっていうのがありまして、最終選考大会に出たんですね。大体それに出て勝てば、行けるんですが、マネージャーのミスで、選手登録がされてなかったんです。忘れられてたんですよ。それが、当日発覚し、走ったんだけれどもダメになったんですよ。それで、謝ってもらえると思ったら、単に実績がないからだという一言で片付けられてしまって、それが悔しくて悔しくて。悔しさだけでしたね。それだけをバネに、今に見てろっていうことで(笑)。秋に気持ちを入れ替えて、自分のことだけに集中して、走り始めました」

[ 前のページ  1 / 2  次のページ ]
北京五輪 最新ニュース