
バルセロナ五輪で銀メダルを獲得した有森裕子は、ある決意を胸に、4年後のアトランタ五輪を目指した。「出たくて出たんじゃない。出なければと思った」と、当時を振り返る。その後、出場権を獲得し、見事銅メダルに輝いてみせた。
そのとき、口から出てきたのは、あまりにも有名な「初めて自分で自分を褒めたいと思います」という言葉だ。なぜ二度も五輪に出場し、メダルを獲らなければならないと考えたのか。プロランナーへの道を切り開いた有森に、五輪の意味を聞いた。
――バルセロナで銀メダルを獲得した後、もう一度、オリンピックでメダルを獲ろうと思ったきっかけは?
「バルセロナが終わった後、メダリストになって、より頑張っていきたいと思っていたのに、受け入れてくれる現場が無かったんです。大変な人が一人増えちゃったみたいな感じでした。チームの中で、どうしていいか分からない。もっと強くなるために、どこかに合宿に行くとか、トレーニングをするとかの対応がきかなかった。何か言おうものなら、天狗になっているとか、わがままになったとか言われてしまう。なぜ自分の実績を生かして、伸びようとするときに、それを後押しする体制がないのか疑問に感じていました。
オリンピックの名声でやっていけるのは、せいぜい一、二年ぐらいなんです。当時、故障していたので、自分が何か言っても聞いてくれない。私たちスポーツ選手が、人に何か問題提起をするには、実績を持った人間じゃなきゃダメなわけです。どの実績って言われたら、オリンピックのメダリストしかないんですよ。銀メダルを一個持っていたって何の効果も無い。もう一回、オリンピックに出てメダリストにならないと、みんなは自分の言葉に振り向かないだろうと思った。自分の夢へ進むために、もう一度現場に戻って、走ることに決めたんです。
出たくて出たんじゃないんです。出なければと思って出たんです。こんな気持ちでオリンピックには、誰にも出てほしくないなと思いましたね。そういう意味で、オリンピックはしんどかったです。あの『自分で自分を褒めたい』という言葉は、すべての時間に対しての言葉なんです」
――銅メダルを見事に獲得されて、その後、肖像権について主張されましたね。
「そうですね。体制が整ったから、自分の“走れる”という技術で生きていきたい。当時、スポンサーをとって、CMに出るという手段が、一番早かったわけですが、自分の肖像権を使うことになりますから、JOC(日本オリンピック委員会)からストップがかかりました。『がんばれ!ニッポン!』キャンペーンのスポンサーになっている企業と、同じ業種の企業のCMには出られないと言われたんですね。
ちょっとまって、なんで肖像権がそっちにあるの?という話になった。ふたを開けてみたら、実業団に登録した時点で、競技団体が必然的にJOCに全部の選手の肖像を一括管理してもらっているという話が出てきた。それはおかしい、と。『がんばれ!ニッポン!』キャンペーンに入っているということが問題なわけですね。じゃあ、キャンペーンを外れればいい。それで、CMを獲っていいかっていうと、今度は、陸連(陸上競技連盟)側からストップがかかった。走ることでお金を稼いだり、メディアに出て行くなら、競技登録者をやめて、タレントになりなさいといわれた。なんで、自分が持っているものを生かして生活しようとしたときに、スポーツ選手だけは名乗ってはいけないのだろう。みんな自分が持っているものを生かして生活しているじゃないですか。アマチュアって何なんですか。
アマチュアの反対はプロじゃないんですよ。アマチュアという意味は全然違うのに、競技者をプロという形で続けるのはいかがなものかというふうになった。世の中的には、賞金レースも当たり前になっていましたし、運がよかったのは、メディアがどちらかというと私の意見寄りだったことです。陸連としては、急には変えられないというので、一旦保留ということで、その間、日本陸連主催の競技には一切出てはいけないということになりました。ちょうど、走れるような状態ではなかったので、一年でも二年でも待ちますよと言って、最終的に一年半後にOKが出た。
ただし、“特例”と言われたんです。私は“特例”じゃなくて、“前例”になりたかったんですね。それで、プロ的活動を一年は継続させようとしました。一年もてば、その間に次が出てくる。この道は継がれるだろうということで、期待して踏ん張ったわけです。そして、99年、ボストンマラソンで『チーム有森』というのを組んで、自己ベストを更新して、3位になりました」











