
――じっさい大学は刺激的でした?
「そうですね。何が自分のためになったかというのはあとになってわかることが多いですけど、大学もそうでしたね。例えば一緒にバレーをやっていても、勝つという目標に対して、どのような思いでいるかは千差万別。いろんな人がいて面白かったですよ。価値観が多様になればなるほど、一方向に向かうのはなかなか難しい。そういう意味での戸惑いもありました。目標は一緒なんですけど、それが人生の全てだと思う人と、それは大事だけれど人生の一部と考える人とでは違いますよね。そういったギャップの部分を感じられたことはその後アメリカに渡ってからの私の大きな支えとなりました。アメリカではその人が持っている価値観に共鳴・共感できないまでも、異なる価値観を持った人が同じものをつくりあげていこうとする事実の存在をを認識するところから始まることがとても大事だと。大学当時の同僚が私に何をいわんとしていたのか、何を不満に思っていたのか、どういうコミュニケーションをとりたがっていたのか。それらのことをアメリカに行ってみて、気づきました。大学での経験がなかったら、アメリカに行っても精神的に耐えていけなかっただろうと確信しています」
――大学からアメリカ行きというのも、またレアなケースでは?
「そうですね。ただ、実業団に入ることにはまだためらいがありました。もちろん、実業団は日本でトップの選手たちが集まっていました。それは間違いないのですが、そこに行ったからといって、全日本に選ばれる保障はまったくありませんでした。また、どの世界にもあるとは思いますが、やはり派閥みたいなものがあると常に感じていました。スポーツは実力の世界だという意識が私は強かったですし、そう教えられてきました。17歳当時、世界を目指したいと思うものには誰にでもまず平等にチャンスが与えられる環境がほしいとの気持ちもあり、それが実業団から全日本、の世界に飛び込むのをためらった大きな理由のひとつでしたね」
――たしかに、他の競技でも少なからずそうしたハードルはありますね?
「少しづつ変わりつつはありますが日本では個人競技でも代表選考の形式が難しかったりしますよね。最近の五輪選考でもいろいろ批判されることがありますけど、団体競技の中での選手選考はなおさらですよね。基準は明確になりにくい。日本でトップになった実業団のチームがそのままオリンピックに行けば分かりやすいのかもしれません。完全に選抜の場合は監督がいて、チーム構想や理想のタイプの選手がいる。監督のタイプによって左右される部分って大きいですからね。選ばれたにしても、自分の実力が発揮しづらいタイミングで使われたりすることもあるでしょうし。もっともどんな監督にも選ばれ、どんな起用法でも実力を発揮するのがプロの選手だと言われればそれまでですが、あのイチローさんだって、監督と合わずに認められなかった時期があったわけですからね。どのような指揮官に出会うか、その難しさはありますよね。」
――その点、アメリカはフラットなのでしょうか?
「アメリカは全般的にそうですよね。陸上のオリンピック選考でも、代表は全米選手権の一発勝負で決まりますよね。私の場合も、そうでした。もちろんアメリカでも監督から代表候補に指名される選手はいます。それとは別にオープントライアウトという制度があって、それを受けました。いまはナショナルチームの公式ホームページを見ればテスト期間の予定が載っているのですが、当時はそんな時代ではありませんでした。知人の知人を頼って、本当にやってるのかどうかも分からないなかで、とりあえず行ってみたという感じでしたよ」
――いわば飛び込み?
「ほとんどそんな感じです。今から考えると思い切った、というより無謀だったかも。」
――では、何の準備をしてよいかも分からないわけですよね?
「ええ。とにかくテストできるようなコンディションにしておくこと。そしていままでやってきたありのままを出そうというだけでした。その時点でそれらがどのようにチームの今後に貢献してくれるかがナショナルチームの最大の関心事でしたからね」
――というと?
「正直に申し上げますと日本にいたときは、選手の資質に関係なく「弱小、早稲田」大学に進学してから下位のリーグ戦をバレーボール強化・普及関係者は誰も観戦に来ることはありませんでした。唯一、東京オリンピックのキャプテンで金メダリストの河西(現・中村)昌枝さんが4年間通じて毎回、来てくださいました。実業団よりはるかにレベルが下がるチームに身を置くなどとは、本気で全日本を目指しているはずがない、と先入観を持たれたのは大変残念でした。弱いチームに行ったから技術が落ちただろう、といわれたこともありました。でも私自身は常に技術の向上を求め、いつかはオリンピックに行きたいという目標は絶対に変えませんでした。ですから私としては、先入観を持たない監督のもとでプレーを披露したらどう見られるか、とても関心があったんです。その当時、アメリカの女子チームは90年の世界選手権で3位になって、日本の成績を上回っていた。もし、そのアメリカの監督に選ばれるなら、それは大学にいったからといって実力が落ちたとはいえない証明になるんじゃないかと。それでありのままの自分の実力をみてもらいたかったわけです」
――見事に認められたわけですけど、すんなり決まったのでしょうか?
「そうですね。比較的早く決定しました。トライアウトにもいろいろなケースがあって、長い選手で1年近くトライアウトをやっている選手もいました。私の場合は、日本から受けに行っていたこともあり、1週間で合否が決定することになっていました。合格と決まった時点で、チームと再合流する日を言い渡されました。合流した日に正式なネーミング(選手登録)が行われ、晴れてチームの一員に。ただし、それはあくまでも「オリンピック候補選手」の立場になれただけですね。とはいえ正式にチームと契約を交わしたわけですからオリンピックへの扉が開かれた瞬間でした。その後は、ひたすらオリンピックに行くことだけを考えて練習してくれって感じでした。本当に幸せでしたね。」











