
――全国、どこを回っても、岩崎さんではなく恭子ちゃんという風に言葉を掛けられるのではないですか。正直、インタビューをしている自分でも、思わず恭子ちゃんと話しかけてしまいそうになるくらい、日本人にとって身近な存在なんですよ。
「そうやって、呼んでいただいていいですよ(笑)。初めて会う方々でも、バルセロナのときに私よりも年長だった方は、覚えていてくださるので」
――バルセロナ・オリンピックは、バルブ経済が終わったあと、日本に元気がなくなっていた時期、将来に初めて暗い影が立ちのぼってきた頃に行われたので、社会人になっていた者にとっては、岩崎さんの金メダルで凄く元気をもらったので、それはもう忘れることはできないですよ。
「そうなんですか(笑)そう言って頂けると嬉しいです。」
――私も実は小学生時代に某スイミング・スクールに通っていたのですが、水泳という身近なスポーツに身を投じていても、全くオリンピックなんていうステージを意識できるような小学生ではありませんでした。中学2年生で金メダルと取っている岩崎さんにとって、当時からオリンピックを身近に感じていたのですか。
「全く、そんなことなかったです。鈴木大地さんが金メダルをとったソウル・オリンピックが小学校4年生のときで、その年がちょうどジュニア・オリンピックという小学生が参加するなかでは、一番大きな大会に初めて出場した年でした。もともと、私は街に一つしかないのどかなスイミング・スクールで育ったのですが、そこで一番良い選手が姉だったんです。3歳上の姉ができるんだからって、無意識のうちに目標になっていました」
――お姉さんの背中を追いかけていたんですね。
「水泳を始めたきっかけ自体が姉の存在で、私が小学校2年生のときに選手クラスになるかどうかという時期に、ちょうど姉がジュニア・オリンピックに出ていたこともあって選手クラスを選びました。」
――ただ、のどかなスイミング・スクールといっても、2年生で選手クラスというのは、やはり突出した才能の持ち主だったわけですね。
「静岡では学年のなかでは1番、2番、3番を競い合っていました」
――当時から、種目は平泳ぎだったのですか。
「小さな頃は、何でも泳いでいました。そのなかでジュニア・オリンピックの標準タイムに一番近かったのが平泳ぎだったんです。」
――何でもということは、小学校の低学年でバタフライができていたということですね。
「はい、そうですね。泳いでいました」
――それって、やっぱり天才ですよ。
「天才?(笑)、天才ではないですよ。とにかく姉がやっていることを、自分もやるっていう感覚でしかなかったです。中学になっても、姉が全国中学校選手権(全中)に出るなら、私も出るっていう感じで。ジュニア・オリンピックにしても、全中にしても姉が出ているのを見ていたから、大会の雰囲気とかが分かっていたんですよ。日本選手権も小学校6年生で出場したのですが……、ビリから数えた方が早くて」
――でも、小学生ですからね。他に小学生が出ていたのですか。
「何人かいたかもしれないです。自分でも全国で上位に行けると思っていなかったですし、それは理解して出場していました。だから、小学生のなかでは一番になろう、自分のベストの更新しようと。それが中学1年生で全国大会に出場したときに、いきなり記録が伸びて、決勝に残ることができたんです。4位になって、ナショナルチームのワンランク下の選抜チーム入りすることができ、海外遠征にも行けることになりました。それからベスト記録が急速に伸び、世界歴代2位の記録を出せました。」
――そうなると、やはり五輪というものが……。
「コーチは意識し始めていましたねぇ。私の場合は、姉も種目、距離ともに同じだったし、姉自身がそういうレベルにいたんです。私が姉の立場だったら、相当嫌だったと思いますけど、私は何も意識せず、家のなかで水泳が話題になることもほとんどなく、姉を尊敬し続けていました。水泳が自分との戦いで、他の人とぶつかって勝つ競技でなかったからじゃないでしょうか。レーンがあってそこを他の競技者と交わることなく泳ぐ。他の選手から邪魔をされたり、自分が邪魔をするわけでもない、そういう部分が私には合っていたと思います。自分との争いだったんで」
――小学生で、自分との戦いに挑めるなんてやはり並大抵のことではないですよね。
「負けず嫌いなんですよ。本当に些細なことでも負けるのは嫌で、でもそれを他人に打ち明けるわけでもなく。」











